nausのほうのブログは制作でアップしたりしていたのですが、
こちらのブログ、書くのは久しぶりになります。
祖母が亡くなり、そのあとで祖父が亡くなってもう二ヶ月。
月日は過ぎるのが早いものです。
思えばこちらは自分の精神的な部分のところを書いていた場所だったので
あまりの精神的なショックが強かったせいか二ヶ月間、ずーっと開く事も出来ずにいました。
自分の心をのぞくのが何より辛かったです。
人の死と言うのは、生きている側にたくさんの事を考える機会を与えてくれますね。
毎日自分に正直に生きているのか、とか
死の先にあるモノとはなんなのか、とか。。。
mixiのほうでも書いていたことなのですが、
祖母が亡くなったあとの不思議な一件で
死は通過点に過ぎないという事に確信を持てた気がします。
以下mixi日記から
幽霊に関してのお話です。
自分は前々から幽霊とか目に見えないモノをなーんとなく感じられる体質のようだったのですが、「そこに確実にいる」という確固たる証拠というものは今まで見つけることが出来ないでいました。そもそも、自分はしっかり見える!!というタイプではなく、気配を感じ取るタイプです。なのでその気配から読み取るものは単に自分のイメージなのかなんなのか、実に曖昧だったのです。
しかし祖母が亡くなった一件で実に興味深いことが起こりました。
二ヶ月前に母方の祖母が亡くなった際、おばあちゃんは団地に住んでいたもので
その遺品整理のため福島から川俣へ毎回車で通っておりました。
団地と言ってもおばあちゃんの家は今自分が住んでいる社宅より広く片付けにはかなりの日数がかかりました。そんななので、中盤に差し掛かってくるともう自分達に必要だと思うモノ・思い出のモノ以外は捨てざるおえないという判断を下し、猛スピードで片付けをしていました。
そんなときです。自分でも未だかつてないくらいびっくりな事が起こりました。
リビングあたりを片付けていたとき母親から「これ捨てて」と書類のようなものの束を渡され、わたしも中身をなんら確認もせずに捨てようとしたのですが。
その時、はっきりと、耳元で
「あー!!それ大事な奴なんだから捨てんでねー!!」
と祖母の声が聞こえたのです。
聞こえたときは本当「なんぞ!?」って感じになってしまいましたが、
半信半疑でその捨てるなと言われた書類のようなものの束を
もう一度ゴミから拾い上げて見てみたところ・・・
なんと、私が祖母に描いてプレゼントした鳥ちゃんの絵が入っていました。
震災のあと片付けられてしまっていて私にはその絵がどこに行ったのかすら分からなかったのに・・・その他にも沖縄で撮った集合写真などの写真類も出て来たのでした。
このとき初めて「ばあちゃん、幽霊になっちゃったけどちゃんといるんだ!!!」
という事に確信を持つ事が出来たのです。
亡くなったその日から気配は感じていたんです。声も聞こえてはいたんですが、
自分を慰めるための都合の良い妄想なのでは?と正直疑ってかかってました。
だけども、ちゃんとそばにいてくれていたんですね・・おばあちゃんは。
その件があった日のあとも、そんな感じのことが何回か起こりました。
デパートで母親とはぐれた際、
「revyちゃーん母ちゃんが呼んでるぞー」と耳元で言ってきたり
母ちゃんがどこに行ったか分からなくなったときばあちゃんに聞くと教えてくれたり。
(ちゃんと教えてくれた場所にいるんです・・・もはやばあちゃんは千里眼です)
ばあちゃんが死んでしまった事実は自分に大きな影をもたらしていてこの二ヶ月間本当心の中がひどい有様でした。毎日どこかで悔やんで泣いてました。もしあの時・・・と考えてしまうんです。結局何も出来なかった自分にも怒りが湧いてくるし、おばあちゃんが亡くなった大元の原因にだって怒りを感じて、自分を苦しくしていました。
すごく大好きなばあちゃんだっただけに、
死んだということが自分の中ではあり得ないことだったから。
しかしそんな貴重な一件を通して死が生の終わりではないという事にも気付かされました。亡くなったからといって存在は亡くならないんだ、と心が少し安堵したようにも思います。
死んだからそれまで、悲しくて前に進めない、もう会えない、悔しい、だけど死んでいった側はそんな悲しんでいる姿は見たくないだろうと思うのです。こちら側がそんな心持ちでいたら向こうも心配であるべきところに帰れませんよね。
この二ヶ月間は苦難の連続でしたが、かけがえのないものを得られたように思います。
死んだということが自分の中ではあり得ないことだったから。
しかしそんな貴重な一件を通して死が生の終わりではないという事にも気付かされました。亡くなったからといって存在は亡くならないんだ、と心が少し安堵したようにも思います。
死んだからそれまで、悲しくて前に進めない、もう会えない、悔しい、だけど死んでいった側はそんな悲しんでいる姿は見たくないだろうと思うのです。こちら側がそんな心持ちでいたら向こうも心配であるべきところに帰れませんよね。
この二ヶ月間は苦難の連続でしたが、かけがえのないものを得られたように思います。
・・・本当に聞こえたのが自分でもびっくりで。
だけどちゃんと存在が在るということは安心しましたね。
最近ようやく自分でもばあちゃんの死に関して納得し始めたように思います。
まだ時々悲しくはなるけども。
上に書いたように悲しいばっかではいられないんです。
この悲しみで得られたものが自分の血肉となるように
常に心にとめていきたいものです。
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