INNER SPACE

こちらは鉱物マニア・revyの日々の出来事や、心の中で思ったことをアップしていく日記帳です。

自身のもう一つのブログArt & Craft NAUS(ナウス)のほうでは書ききれない精神的な内容はこちらに集約されています。

みえない存在、ガイドからのメッセージなどを記載していますが、それらがよくわからない方でもちょこっと眺めていただけたらうれしいです。


2012年6月28日木曜日

突然の悲しみ

今日テレビを見ていたら、五稜郭の歴史の事を特集してました。
これを見ていて、
だから最近余計にテレビを見なくなったのだなと痛感させられました。

五稜郭は二ヶ月前亡くなったばあちゃん、母親、私の
親子三代で北海道旅行にいった時たちよった思い出の場所なんです。

そういった思い出のある場所が映し出される度、
祖母が亡くなったことの現実を突きつけられてどうしようもなくなるんです。

また行けると思ってたのに、今度は新しい場所に行けると思ってたのに。
そんな思いにばかり心が行ってしまいます。

やはりまだダメなんでしょうか。
こういった悲しみっていつかは癒えるものなんでしょうか。
時間が経ったら、と思ってますが、このまま放っとくと余計に闇が深くなっていきそうで。

ばあちゃんの事は本当好きで、かけがいのない人でした。

でも前にブログで書いたように存在が無くなったわけではないことは分かっても、
目の前からいなくなった悲しみは拭えません。
そしてこんな一人の部屋では、かえって悲しみが強くなって前が見えない。


今は一人になるのは予想以上に辛いようです。


本当最近良く思うこと、死ってなんなのでしょうね。

ここ二年で親族を含めかなり多くの人がちかくで亡くなって
大震災でも多くの人が亡くなって。
自然と死と言うものに目が向くようになりました。

物質的には姿がなくなっても、存在はしているという経験から
一般的に言う死というのが良く分からなくなって来ました。

でも死に疑問を持つと生まれるということにも疑問を持って来ます。。。
というような事を考え過ぎてて、なんか頭が痛いです。


ああ、もう三時になる。流石に寝なきゃですね。

何やら最近はくらーい事ばっかり書いていますが、
もう流石に真面目に自分の心に
向き合わなければいけないところまできてしまいました。

ちゃんと向き合わなければ先には進めませんし、
何かにつけこういう悲しみに襲われるのは
まだ何処かで何か詰まってる証拠なのかもしれません。

自分の心に嘘をついたり本心を表に出さないで溜め込むと、
目に映る世界は歪んで行ってしまいますから。

あるがままの自分と当分、向き合いたいと思います。

2012年6月22日金曜日

不安は邪魔

新しい事、未だかつてやったことのないモノに着手しようとすると
何か不幸があったり、思いもよらないトラブルで
その着手しようとしていたモノを頓挫せざるを得なくなった。
そういうことってない?

という話が先日お友達のOさんとの会話の中で出て来ました。

これは私も幾度となく経験していることです。
そういったトラブルが、
新しく着手しようとしているモノの出鼻をくじいてきてすごいイライラし出すんですよね。

だけどこれ「引き寄せの法則」の観点から見ていくと・・・
大元の原因が自分にあると言うことに気付かされるんです。

もし新しい事を始めようとして何らかの「トラブル」が邪魔しにきたら、
新しいモノ、ことに着手する時の自分が抱いた気持ちに着目して欲しいと思います。

「ワクワクするな〜」とか「楽しいだろうな〜」と考えるその他に、

必ずついてまわるであろう感情。

「本当にやれるのか」「やってダメだったらどうしよう」

そういう「不安」が湧き上がってきたりしませんか?

実はこれが大元の原因です。
そういった不安というのは、
「先に進みたい自分」に無意識にブレーキをかけようとする要因となるんです。

心の中でいつも「先に進みたい自分」と
「現状を維持したい自分」のせめぎ合いが起こるのだと思います。
それは50対50で拮抗することはなく、49対51でどちらかがまさっていくのではないかなと。。

引き寄せの法則の「イメージは世界を形作る」、この考えのもとに説明すると

先に進むとなると、心の中に不安が生じる(不安をイメージしてる状態がある)から、

その不安が知らずうちにそのまま自分の目に映る世界に反映されてしまい、

それが何らかのトラブルという形をとってあらわれてくる。

それで、トラブル続きで前に進めない・・・。
私も気づく前は毎回こんな堂々巡りを繰り返していました。


不安は誰だって心の中に持っているモノです。
新しいものに着手するであってもなくとも、先が見えないのは同じなのですけどね( ;´Д`)

これの解決策と言ったら、
「前に進みたい自分」のその瞬間の気持ちに目を向けるということでしょうか。
進みたいという意思を、言い方は変かもしれませんが素直に受け止める。。。

不安はまず置いといて。

本当に進みたいと思っているか否か自分に問う。
そして進みたいと言うほうがまさっていたなら、その思いのまま・・・

突っ走ってみるとか!

そしたら意外にも不安なんて小さいもんだったんだなって気づくかもしれません。

2012年6月21日木曜日

死は通過点。

nausのほうのブログは制作でアップしたりしていたのですが、
こちらのブログ、書くのは久しぶりになります。

祖母が亡くなり、そのあとで祖父が亡くなってもう二ヶ月。
月日は過ぎるのが早いものです。
思えばこちらは自分の精神的な部分のところを書いていた場所だったので
あまりの精神的なショックが強かったせいか二ヶ月間、ずーっと開く事も出来ずにいました。

自分の心をのぞくのが何より辛かったです。

人の死と言うのは、生きている側にたくさんの事を考える機会を与えてくれますね。

毎日自分に正直に生きているのか、とか
死の先にあるモノとはなんなのか、とか。。。

mixiのほうでも書いていたことなのですが、
祖母が亡くなったあとの不思議な一件で
死は通過点に過ぎないという事に確信を持てた気がします。

以下mixi日記から 



幽霊に関してのお話です。 


自分は前々から幽霊とか目に見えないモノをなーんとなく感じられる体質のようだったのですが、「そこに確実にいる」という確固たる証拠というものは今まで見つけることが出来ないでいました。そもそも、自分はしっかり見える!!というタイプではなく、気配を感じ取るタイプです。なのでその気配から読み取るものは単に自分のイメージなのかなんなのか、実に曖昧だったのです。 


しかし祖母が亡くなった一件で実に興味深いことが起こりました。 


二ヶ月前に母方の祖母が亡くなった際、おばあちゃんは団地に住んでいたもので 
その遺品整理のため福島から川俣へ毎回車で通っておりました。 


団地と言ってもおばあちゃんの家は今自分が住んでいる社宅より広く片付けにはかなりの日数がかかりました。そんななので、中盤に差し掛かってくるともう自分達に必要だと思うモノ・思い出のモノ以外は捨てざるおえないという判断を下し、猛スピードで片付けをしていました。 


そんなときです。自分でも未だかつてないくらいびっくりな事が起こりました。 


リビングあたりを片付けていたとき母親から「これ捨てて」と書類のようなものの束を渡され、わたしも中身をなんら確認もせずに捨てようとしたのですが。 


その時、はっきりと、耳元で 


「あー!!それ大事な奴なんだから捨てんでねー!!」 


と祖母の声が聞こえたのです。 
聞こえたときは本当「なんぞ!?」って感じになってしまいましたが、 
半信半疑でその捨てるなと言われた書類のようなものの束を 
もう一度ゴミから拾い上げて見てみたところ・・・ 




なんと、私が祖母に描いてプレゼントした鳥ちゃんの絵が入っていました。 
震災のあと片付けられてしまっていて私にはその絵がどこに行ったのかすら分からなかったのに・・・その他にも沖縄で撮った集合写真などの写真類も出て来たのでした。 


このとき初めて「ばあちゃん、幽霊になっちゃったけどちゃんといるんだ!!!」 
という事に確信を持つ事が出来たのです。 


亡くなったその日から気配は感じていたんです。声も聞こえてはいたんですが、 
自分を慰めるための都合の良い妄想なのでは?と正直疑ってかかってました。 


だけども、ちゃんとそばにいてくれていたんですね・・おばあちゃんは。 


その件があった日のあとも、そんな感じのことが何回か起こりました。 
デパートで母親とはぐれた際、 
「revyちゃーん母ちゃんが呼んでるぞー」と耳元で言ってきたり 
母ちゃんがどこに行ったか分からなくなったときばあちゃんに聞くと教えてくれたり。 
(ちゃんと教えてくれた場所にいるんです・・・もはやばあちゃんは千里眼です) 


ばあちゃんが死んでしまった事実は自分に大きな影をもたらしていてこの二ヶ月間本当心の中がひどい有様でした。毎日どこかで悔やんで泣いてました。もしあの時・・・と考えてしまうんです。結局何も出来なかった自分にも怒りが湧いてくるし、おばあちゃんが亡くなった大元の原因にだって怒りを感じて、自分を苦しくしていました。 

すごく大好きなばあちゃんだっただけに、 
死んだということが自分の中ではあり得ないことだったから。 


しかしそんな貴重な一件を通して死が生の終わりではないという事にも気付かされました。亡くなったからといって存在は亡くならないんだ、と心が少し安堵したようにも思います。 


死んだからそれまで、悲しくて前に進めない、もう会えない、悔しい、だけど死んでいった側はそんな悲しんでいる姿は見たくないだろうと思うのです。こちら側がそんな心持ちでいたら向こうも心配であるべきところに帰れませんよね。 
この二ヶ月間は苦難の連続でしたが、かけがえのないものを得られたように思います。 




・・・本当に聞こえたのが自分でもびっくりで。
だけどちゃんと存在が在るということは安心しましたね。

最近ようやく自分でもばあちゃんの死に関して納得し始めたように思います。
まだ時々悲しくはなるけども。

上に書いたように悲しいばっかではいられないんです。

この悲しみで得られたものが自分の血肉となるように
常に心にとめていきたいものです。